● 個人の責任


 もうひとつ、「個人の責任」があった。だが今日のアメリカ文化では、これはそうとう変貌してしまっている。特に個人の責任を否定的なものととらえて、個人の責任をとらないことを黙認している。
 人々は自分の行動に対する個人の責任をとらないし、責任を責任と考えず、「非難」と考えている。なぜ責任と非難が同等になってしまっているのか? 他人の抱いている悲しみや負担に、個人的な責任があるとは思わない、お気軽な社会で毎日を過ごすようになってしまったからだ。
 筆者は残念で仕方がないが、自分の行為を他人のせいにし、自分のエゴを守らんがため非難するスケープゴートをつくりだし、「こちらのミスではない」が今日常套句になってしまっている。

● 個人の努力


 「個人の努力」も、伝統的なアメリカ文化ではやはり重要であった。いったんある事をしようと決めたら、実現するために努力したものだ。
 ところが、不幸にも今日ではそうしたムードが後退してしまっている。大半の人々が手軽・容易に切り抜けることばかり考えている。物質的な物、金、仕事、報酬を手に入れようと、しかもできるだけ努力しないで手に入れたいと思っている。
 そしてこの権利、あの権利と何事も権利ばかり主張する。福祉の恩恵を受けている人々は徹底的に福祉の権利にしがみつき、社会の寄生虫になっている。罪を犯し刑務所に入っている者たちでさえ、世の中の困難を乗り越えようと、まじめに懸命に働いている人々以上に権利を主張し、待遇改善を求めている。