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● 事件にみる個人の責任


 最近、新聞で報道されたショッキングで悲惨なニュースがある。東海岸のあるところで起こった、18歳の少女の妊娠にまつわる話である。
 この少女は、ハイスクールで毎年大々的に行われている新入生歓迎のダンス・パーティに参加するつもりであった。運命の皮肉か、ダンス・パーティの直前になって、陣痛がはじまり、密かに隠れて赤ん坊を産み落とした。ところが、この赤ん坊を布でくるみ、ゴミ箱に投げ捨て、ダンス・パーティに出席したのだ。当然ながら、この少女は殺人犯で逮捕された。
 驚くべきことに、新聞にはこの少女を擁護する論評がつぎつぎに掲載されたのだ。この少女は社会の圧力に屈服し、むしろ彼女を育てた人々や社会のことを考えるべきだというのである。
 これはまったく筋違いの話というほかない。なぜ自分の行動に個人として責任をとらせようとしないのか。なぜ言い訳を引き出しては、自分の悲しむべき行為とモラルに反する違犯を正当化しようとするのか。なぜ社会の一部の人々はこのような無責任な声援を送るのか。
 もちろん、この少女の行動に対して個人としての責任をとるべきだ、という論評もたくさんあった。だが相当な数の人たちが、この少女は螺旋状に下降している社会の犠牲者だ、と述べている。社会が螺旋状に下降していることは認めるとしても、母親が生まれたばかりの赤ん坊を殺して、パーティに出席してしまったことに対して、言い訳は利かないはずだ。