● ご自身の事業展開は? ─ テニスクラブ、居酒屋、ケーキ・喫茶店…
■ 金井教授 金井さんはこのように、有馬全体の活性化に尽くされたわけですが、ご自身の事業展開はいかがでしたか。■ 金井社長 有馬に戻って、最初にはじめたのがテニスクラブでした。
① サニーサイドアップ・テニスクラブ:1981年のことです。そのころには、テニスがブームになっていました。テニスで有馬に若い人を呼ぼうと考えたのです。すると、テニスのあとは汗をかいてお風呂に入りたい。風呂に入ると一杯飲みたいというニーズのあることがわかりました。風呂のほうは、有馬温泉ですから、ニーズは満たしている。
② 居酒屋:それで、一杯飲むほうは、蔵を改造して居酒屋をはじめました。
③ 喫茶店・ケーキ屋:そうしていると後輩がケーキ作りを学んで有馬に帰ってきました。それで喫茶店をはじめて、ケーキを出すようになりました。
④ カフェ:ある程度順調に進んでいたのですが、阪神淡路大震災をきっかけに、大きく変化しました。
有馬に来る人が減って、旅館の経営がどこも厳しくなりました。私は、喫茶店を独立させて、パンの部門を設け、もうひとつカフェを増やしました。
⑤ ピザ屋:さらに、もうひとつ「いつでも夜逃げできるピザ屋」をはじめました。
近くの藤原台が新興住宅地として開発されていった時期で、そこには土地がありましたが、店を建てるためには貸してもらえない。駐車場なら貸すというので、コンテナを置いて宅配ピザ屋をしました。コンテナですから、「どけ」と言われたらいつでも更地にできるので、「いつでも夜逃げできるピザ屋」です。
最初はすごく儲かりましたが、チェーン店のピザ屋がどんどん出てきて、効率が悪くなりやめました。そのピザ屋の屋号は「グリーン・ピザ」でしたが、私のなかでは、当時からグリーンがひとつのテーマでした。
⑥ グリーンパパ:いっぽう、「御所坊」では、震災前から契約栽培で兵庫県の北のほうでお米をつくっていました。震災のときは、南からの補給路が不通になり、北から契約栽培の米と一緒に、トラックに魚などを積んで運んでもらって凌いできました。
こうした契約栽培を発展させて、2001年に「グリーンパパ」という名の農業法人をつくりました。「グリーンパパ」という命名は、「母なる大地を耕そうお父さん」という意味ですが、実は、ピザ屋のロゴを少し入れ替えると使えるということもありました。
⑦ ギャラリー、おもちゃ屋から有馬玩具博物館:前後しますが、震災のあと居酒屋は、RETIRO D’OURO(レティーロ・デオーロ)というギャラリーにしました。ギャラリーをすることで作家と付き合うようになって、ヨーロッパの木のおもちゃを並べる有馬里(ALIMALI)というおもちゃ屋ができ、有馬玩具博物館につながっていきます。
■ 金井教授 金井さんご自身が絵描きを目指されていたことも、ギャラリーや玩具博物館を作られるきっかけになったのですね。
人とのつながりでは、グリコのおまけ作家の加藤裕三さんとか、大事なところで上手い具合に面白い方に出会われています。出会った人にも面白いと感じていただいて、いろいろなものが実現していく、そのあたりがたいへん興味深いですね。