● 有馬の将来の姿

■ 金井教授 金井さんご自身では、有馬の将来の姿をどのように考えておられますか。
■ 金井社長 方向として、たとえば、丸木舟のように自分が漕ぎながら、人と話をしながらつながってやっていくという形がひとつあります。いままで、私がやってきたようなことです。
 もうひとつは、モーターボート型といったらいいでしょうか、旅館の子があとを継ぐということでなく、銀行とかも巻き込んで大規模な宿泊施設にして、宿泊産業としてやっていくというやり方があります。
 私自身にとっての幸せは、丸木舟型かな、それともモーターボートの一員として、自分の得意な機能を果たすことなのかな、と考えています。
  いま、有馬温泉では、東急ハーベストさんとかリゾート・トラストさんの会員制ホテルができつつありまして、ここ1年くらいで有馬全体の宿泊部屋の数が1.5倍になります。そうすると必然的に室料の価値は落ちていきます。
 そのことも頭にあって「御所別墅」をつくりました。鉄筋のほうが効率は良いのはわかっています。環境とかを考えると、経営が成り立つなら、木造の旅館がベストだと思うのですが、すきま風で寒いとか別の問題も出てきます。
■ 金井教授 有馬温泉の客数は1991年がピークで192万人でした。一番大変だった震災の1995年が102万人というように聞いていますが、今どれくらい来ていますか。
■ 金井社長 たぶん宿泊としては100万人より少ないと思います。一人150円の入湯税の合計が年間1.5億円くらいなので、日帰り入浴のお客さんを考えると100万人は超えていないでしょう。
■ 金井教授 震災の年より少ないくらいですね。そのようななかで、宿泊のキャパが1.5倍になるのですから、大変です。
■ 金井社長 やはり、有馬をどうして行くかは、次代の人たちが決めることだと思います。私が生まれた1955年はひとつの日本の転機でした。有馬も近代化を選んで、どんどん鉄筋型になっていきました。それが60年たって考えると、有馬がもし瀬戸内海国立公園に入ることを選んでいたら、有馬が京阪神のオアシスになっていたかもしれません。
 旅館の規模も拡大せずに、ホスピタリティを充実させていれば、世界中からお客さんがやってきて、皆幸福だったのではと思ったりします。100年かけてそのような姿に戻すという選択肢もあると思います。
 街づくりには30年先を考えるということからしても遠大な話ですが、次代の人たちには考えていってもらいたいと思っています。
■ 金井教授 いま、有馬で、いよいよ金井さんたちの世代が、次の世代を育成しながら、この地域全体のリーダーとして、方向性を決めていかれるわけです。何人かのリーダーがいると思いますが、方向性は一致しているのですか。
■ 金井社長 近代化を進めていった過程で、有馬温泉のあるべき姿について異なる意見がありました。それに、人の集まりですから、いろいろな考え方の人がいて、ひとつにまとまるということは難しいです。
 旅館の跡継ぎには養子が多いという話をしましたが、即戦力を求められる養子とロングスパンで育てられる実子との考え方の違いもあります。また、実子でも同級生というのは、意外に対立してしまうことがあります。
 狭い有馬で、小さいころから競争させられて、どちらが優秀だったとか、仲が良いとか悪いとか、そんな事情も関係してきます。なかなか有馬全体がひとつにまとまれない、という歴史がありました。
 ただ、厳しい環境になってきて、いま、もう1度一緒にやろうという機運が高まっています。観光協会としても、街づくりの資金を行政から得るのはなかなか難しいことはわかっていますが、入湯税の一部を有馬に使ってもらうよう働きかけを強めるとか、新たにマニフェストをつくって入場料をお客さんから集めるとか、という検討も進めております。
  有馬八助商店の成功例のように、有馬で水事業を起こそうとか、そんな準備を進めています。実は、『広辞苑』に武家の8人の介を意味する「八介」という言葉があります。有馬八助商店は「助」の字を使っていますが、本来の意味は「介」と同じです。有馬八助商店の8人は、いずれは観光協会を担うと思われる人たちが集まったのですが、その人たちが、今まさに、観光協会のトップクラスになっています。