● 15代の歴史の重み

■ 金井教授 私には想像もつきませんが、「御所坊」さんの歴史で15代連綿と続いているのは驚きです。ふつう、上の世代といったときに、一番気になるのは父親で、その父親の話のなかに祖父の話が出てきます。
 おじいさんの思いのある旅館を、孫の世代が変えようと思ったときに、上の世代から見て、ちょっと斬新すぎたり、けれども他方で伝統が守られていたりするわけです。
 15代目にお生まれになるということの良さと大変さというか、それを聞かせていただいていいですか。想像もつかないので……。
■ 金井社長 私は今でも15代続いていることをあまり意識していません。でも木造の「御所坊」を残していこうということにも、祖父の思いが入っていると思いますので、そういう意味では、代々続いてきている重みは感じます。
 また、代々続いているといっても、温泉旅館には結構養子が多いのです。私の父も祖父も、血のつながりのあるところから入ったのですが、養子です。それで、私は金井家に100年目くらいに生まれた長男なので、祖母などには非常にかわいがってもらいました。
 金井家も祖父母の時代までは、相当の資産家だったと思います。祖母は凄い茶人でした。「御所坊」に飾っている茶道具は、祖母が集めたものです。曾祖父は、日本で最初のバス会社、有馬自動車を設立して、アメリカから輸入したバスで、有馬と三田の間を運行させました。

 

 

● 有馬全体の活動のその後

■ 金井教授 有馬全体の活動のその後について、お聞かせください。有馬の世代がつながって、企画宣伝部をつくったというところまで伺いました。
■ 金井社長 有馬の青年部は40歳で定年ですが、年寄りは元気だし、中年は何もすることがありません。それでリスクもあるけれどリターンもある形で活動しようと、合資会社有馬八助商店を設立しました。
 有馬八助商店は、有馬温泉の活性化を図る目的で、有馬温泉観光協会青年部のOBが中心になり、有馬温泉内で事業所を営んでいる8人が出資をして設立しました。
 有馬温泉のメインストリートで「有馬市」というショップを直営して、練り製品のてんぷらやソフトクリームを販売しています。設立の目的の一つが、有馬温泉の名物を創造することでもありましたので、明治時代に発売されていたサイダーを復活させました。昔からの炭酸の効いたサイダーを販売したところ、各地で評判を呼びました。
■ 金井教授 さきほど、震災前に有馬の改革のマスタープランができていたとおっしゃっていましたが、どの程度まで進んでいたのですか?

 

 

● 街づくり30年改革説

■ 金井社長 街づくりは30年単位で考えるといわれます。30年前、私は25歳でした。青年部で有馬に若い人を呼ぼうと活動していました。
 有馬の町をカーフリーにして遊歩道をつくって、そのためにはテニス場を駐車場にして、作家に関わってもらって有馬に来た人が見学できる博物館をつくったり、作家の子がイタリア料理を学んで帰ってきたというのでイタリアンレストランを開いたり、というようなことをしてきたわけです。
 そのような結果、1995年の震災前までには、有馬遊歩道計画が中間報告までできていたのですが、震災で神戸の都市計画とともに止まってしまいました。
 震災では、有馬の町も被害を受けました。復興の過程で中央部に駐車場をつくってしまって、「歩ける町」の方向が狂ってしまった観があります。
 街づくり30年というと長い期間なので、その中間点で見直して軌道修正して進めるべきなのですが、有馬の場合は震災で十分にできなかったというマイナスを抱えています。